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2018年12月31日月曜日

旧約聖書=イエス・キリスト登場前。 新約聖書=イエス・キリスト登場後 Holy Bible: Old and New Testament


MULTILINGUAL HOLY BIBLE


旧約聖書=イエス・キリスト登場前

新約聖書=イエス・キリスト登場後

聖書の原典は、旧約聖書がヘブライ語で、新約聖書がギリシャ語で書かれてる。

なので、「英語聖書」とか「日本語聖書」というのは、正確には「各国語に翻訳された聖書」。

2018年10月15日月曜日

祈りに興じる To pray - 至聖三者聖セルギイ修道院


祈りに興じる To pray

至聖三者聖セルギイ修道院

2002年2月末から3月始めにかけて、名古屋教会司祭は モスクワ郊外の至聖三者聖セルギイ修道院へ単身研修派遣されました。 教団機関誌「正教時報」に掲載されたレポートをご紹介します。 正教の奉神礼的生活の一端にでも触れていただければ幸いです。

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伝統には誰でも近づくことができます。伝えられてきたものを忠実に再現することは根気さえあれば、いずれ誰にでも可能となります。幼い時から修行に励んでいれば、私だって今頃はいっぱしの職人でしょう。
 しかし芸術にせよ、思想にせよ、生き方にせよ独自の新しい世界を創り出すのは誰にでも可能なことではありません。創造的という悪魔的な言葉にとりつかれ、どれほど多くの人々が人生を空費してしまったことでしょう。
 生きること、そして日々の生活には安定したかたちが必要です。まずそのかたちを生活の律動の中で、共に生きる人々と分かち合うことが、生きることの喜びや楽しさへの誰にでも開かれた入り口です。私たちの不幸はそのかたちを失ってしまったことです。

 二月末から三月始めにかけ十日間、モスクワから数十キロ北にある至聖三者・聖セルギイ大修道院で過ごしました。七百年近い歴史を持つ、つねにロシア正教会の中心にあった修道院です。巡礼者や観光客への活発な対応へのいそがしさという外皮をはぎ取れば、「伝統」といったら他にどこで探せるのかというほど伝統的な暮らしがそこにあります。
 朝の五時半、聖セルギイの不朽体を前にした聖人への感謝祷から始まり、徹夜祷が永眠修道士たちへのリティアで終わる夜八時近く(日曜は徹夜祷が長く九時頃)まで、奉神礼を中心にした生活が毎日厳格に繰り返されます。修道院側から丁重にも立派なゲストルームを提供されたため体験できませんでしたが、おそらく修道士たちの修室でも祈りや労働を中心にした伝統的な生活が規則正しく実践されていることでしょう。鈴の音で始まり、聖人伝の誦読の内に「着々と」進む大食堂での食事にその片鱗をかいま見たと言えるかもしれませんが。
 しかし、そこでは、伝えられたかたちに縛り付けられ、凍り付いてしまった人々は見受

2018年8月9日木曜日

エギナの聖ネクタリオス (+1920) St Nektarios of Aigine


SAINTS OF MY HEART


エギナの聖ネクタリオス (+1920)

(St Nektarios of Aigine Island, Greece)

エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス(英語: Saint Nektarios of Aigine、1846年 – 1920年)は、正教会の聖人。日本正教会で多用される教会スラヴ語由来の転写ではネクタリイ。

修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られる。神学者、哲学者、詩人、教育者、禁欲主義者、神秘主義者などと称されるほどの多才な面があった。歌詞は公祈祷の祈祷文によるものではないが、全世界の正教会で愛唱される聖歌『アグニ・パルセネ』を作曲してもいる。

1846年10月1日、トラキアのシリヴリアの貧しい家庭に生まれた。生まれた際の俗名はアナスタシオス・ケファラス。14歳のとき、働きつつ教育を受けるためにコンスタンディヌーポリに移住。1866年からはキオス島の学校で教えつつそこに7年間住み、30歳で修道士となる。3年後、輔祭となり、ネクタリオスの名を与えられる。1885年にアテネ大学を卒業。大学時代から、多くの聖書註解を含む多くの著述を行う。

アレクサンドリアで司祭に叙聖され、カイロの教会に奉職。これは名誉ある職分であった。1889年に敬神の念と説教者としての実力、牧会能力が評価され、総主教ソフロニオスによりペンタポリス府主教に叙聖される。すぐにネクタリオスの人望が高まるが、その声望を妬んだ聖職者達によって噂が立てられ、噂を信じてネクタリオスの弁明を聞かなかった総主教ソフロニオスにより、弁解の機会も与えられず教会裁判の手続きも経ず、エジプトから追放される。1891年にギリシャに戻り、何年かを説教者として過ごす。

1894年にアテネ・リザリオス教会学校の校長を任ぜられ、15年間在職しこの間多くの著作をのこす。1904年には何人かの修道女の求めに応じ、エギナ島に至聖三者女子修道院を設立する。1908年12月に神学校校長の職を辞し、エギナ島の至聖三者女子修道院に一修道士として隠棲する。ここでも著述を行い、精神的指導を求めて来る近隣の人々の痛悔を聞いた。
1920年11月9日、永眠。永眠後の遺体の傍らで、重病人が快癒する奇蹟が起きたと伝えられている。埋葬式には多くの人がギリシャ・エジプト全土から訪れた。1961年4月20日に列聖。生前からネクタリオスを聖人とみる人々が多かったが、正式な列聖はこの日に行われた。

Wikipedia

2018年7月7日土曜日

正教会では、主教たちはみな同等です In the Orthodox Church all the Bishops are equal


正教会では、主教たちはみな同等です

In the Orthodox Church all the Bishops are equal

正教会では、主教たちはみな同等です。主教が代表する一つ一つの教会は、それぞれが神さまの祝福のもとにある「完全なハリストスの体」であって優劣はないからです。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

2018年2月5日月曜日

東方正教会の歴史 History of the Eastern Orthodox Church


MULTILINGUAL CHRISTIANITY - ORTHODOXY


東方正教会の歴史

History of the Eastern Orthodox Church

1 初代教会
正教会の歴史を説明するには、最初にハリストス(キリスト)とその弟子たちについてふれなければなりません。正教会は、ハリストス(キリスト)によって作られた教会そのものなのです。ハリストス(キリスト)は、十字架にかかり、死に、そして復活した後、昇天されました。そしてこの世の終わりに光栄のうちに再び来られます(「再臨」という)。このハリストス(キリスト)の昇天と再臨の間の期間のために、ハリストス(キリスト)は私たちに「教会」を与えられました。

「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言います。これは「呼び集められた者の集まり」という意味をもつ言葉です。つまり「教会」とは、この世においてそして天国において神の言葉を守り、神の御旨と業を行うために招集された神の民の集まりです。

ハリストス(キリスト)は、凡そ30才の時に公に人々の前に現れ、神の国を教え、やがて十字架と復活という救いの業をなされました。このことを「公生涯」と言います。歴史的に言えば、ローマ皇帝ティベリウス在位(紀元後14~37年)の時代です。
ハリストス(キリスト)はその「公生涯」の最初から弟子たちをご自分のそばに招きよせました。弟子たちは次第に増えていき、その中から特別に12人を選びました。それが「十二弟子」とか「十二使徒」と呼ばれる人たちです。ハリストス(キリスト)は、単なる「教えの言葉」を与えるだけではなく、神の国の体験、人としての正しい生き方、正しい信仰を、生活をとおして伝授するために十二弟子を選ばれたのです。弟子たちはハリストス(キリスト)を見、聞き、触れ、生きた交わりをした人たちでした。そして彼らはハリストス(キリスト)の「復活の証人」となりました。

弟子たちのもとへ聖神(せいしん)が降臨した時、彼らはハリストス(キリスト)の教えの意味、十字架と復活の意味を十分に悟りました。ここから彼らの力強い福音の宣教が始まりました。それで「聖神降臨」の日を「教会の誕生日」と呼ぶことがあります。

ペトル(ペテロ)やパウェル(パウロ)といった最初の弟子たちは、使徒となってハリストス(キリスト)の復活の福音を全世界に伝えるために活躍しました。『使徒行実』にはその様子が記されています。使徒たちの教える福音を信じて洗礼を受ける人たちがどんどん増えていきました。彼等が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのはアンテオケという町においてです。

使徒たちは、町々で自分の後継者を育てました。その後継者を中心とした教会が地方地方で大きくなっていきました。その後継者は、聖書では「長老」と呼ばれていますが、今でいう「主教」に当たる人たちです。その「主教」を中心とした教会は、三世紀末には、すでにローマ、アフリカ、エジプト、ギリシャ、小アジア(現在のトルコ)、アラビア、インドなどに広がりました。

クリスチャンたちは毎週日曜日には集まって共に祈り、パンを裂いていました。これは今でいう「聖体礼儀」です。さらに「洗礼」やその他の祈祷が、定型の祈祷文によって執り行われました。 この時代の祈祷文の一部は今も正教会の奉神礼の中で使用されています。クリスチャンたちが集まった場所としては、信徒の家や専用の集会所もありましたが、ローマでは「カタコンベ」と呼ばれる地下墓地に集まり、さまざまな壁画を書いて、信仰を固めていました。

しかし、当時、教会は迫害されていた時代でした。第一にユダヤ教徒から、第二に異教の俗衆から、第三にローマ帝国からの圧迫を受けました。「クリスチャン」というだけで裁判、投獄、拷問、そして処刑された人たちがたくさんいました。それでも信仰を守った人たちのことを「致命者」(一般では「殉教者」)と言います。

また、教会の教えや信仰に対しての論争があり、教会外からその信仰を嘲笑する人たちがいました。キリスト教は、神々を拝まないため無神論者だとか、ハリストス(キリスト)の体と血を食べる人食い人種だとか、愛を教える性的放縦者だとか、そのほとんどは全くの誤解や見当外れのものでした。それらに対して弁護をした「弁証家」と呼ばれる聖人たちがいます。「弁証家」たちは、正教会の「正しさ」を熱心に説いた人たちです。
そして、教会の内部でも、その真理と信仰を歪める人たちがいました。彼等は「異端者」と呼ばれます。異端者は、正教会の正しさの一部を切り捨てたり別の教えを取り入れたりして、自分勝手な間違った教義を唱えました。例えば、グノーシスと呼ばれる異端者たちは、二元論の思想や異教の教義とキリスト教を混合させました。マルキオンという人は、